第2回 道徳教育推進研究全国大会 開催!

平成251116日(土)に、道徳教育推進研究会が主催する第2回「道徳教育推進研究全国大会」が、東京水道橋の倫理文化センターにて開催されました。この大会は、小・中学校の先生方が中心となり、これからの道徳教育をよりよいものにしていくために、皆で集まり、討論をするために立ち上げられたものです。

【特別講演】 道徳教育の本質は何か                   丸山敏秋(社団法人倫理研究所理事長) 

 道徳教育の本質をなすものとして、2つ挙げたいと思います。

 ひとつは、大人側は、善である価値をはっきり持って、その「価値の鋳型(に子供を注入することです。これはある意味、価値の強制です。しかし、いったん鋳型にはめ込んだとしても、子供は自分で考えて、出たければ出ればいいのです。でもいったんはめ込まなければ判断する基準がありません。

 ふたつめは、教師自らの道徳力を高めることです。もっと正確に言えば、高める努力をするということです。先生といえども、そんなに徳の高い人ばかりではないでしょう。しかし、教える側として、誇りをもって少しでも自分を磨こう、高めようという気持ちがあれば、それが無意識的にでも子供たちに影響を及ぼすと思います。

 戦後の道徳教育を批判するときに、戦前の修身教育が引き合いに出されることがあります。しかし、実は修身も当時からその問題点が指摘されていました。ある人は「今や修身教育は我が国教育界の癌である」とまで言っていたのです。明治以来、あまりに日本を忘れすぎた教育の過失だとして、その民族の歴史と伝統と切り離された道徳がいかに無力にして空虚であるかがさかんに説かれています。 道徳の「教科化」が現実味を帯びてきているからこそ、こうした修身教育批判も参考にしながら、道徳の本質とは何かをじっくり考えていくことが大切だと思います。

【実践提案①】 日本人の心を育てる道徳教育            山本崇之(千葉県麗澤中学・高等学校教諭)

 本校では今年の4月から『13歳からの道徳教科書』を道徳のテキストとして使い始めました。その中の教材である「(との決別―橋本左内」についての実践報告をしたいと思います。

 授業の内容ですが、先ず橋本左内の人となりを説明してから、『啓発録(けいはつろく)』の「稚心を去る」を、“なぜ幼いことは駄目なのか”“なぜ親からの自立が大事なのか”を生徒に考えさせながら、一緒に読み進めました。

また『啓発録』には、学ぶことについても書かれていますが(「学に勉める」)、“なぜ勉強するのか”という問いについて、生徒はなかなかうまく答えられません。いい学校に入るためでも、親にほめられるためにするものでもなく、人として正しい行動ができるようにするために勉強するということを、『啓発録』を通して、生徒に教えることができたように思います。

そして、道徳の授業だけで終わることのないように、私は中学1年生の学年主任をしていることもあり、この「稚心を去る」(子供っぽい心を捨てる)を学年目標にしました。「稚心を去る」=「自立」を意識することは、中学1年という時期には、一番わかりやすく、やりやすいものと考えてのことです。各生徒の机にもこの言葉を貼らせることで、一年間常に意識するようにしています。

【実践提案②】 浪速中学校における道徳実践について         出口晴久(大阪府浪速中学校教諭)

本校は、神社神道の教えを建学の精神としている、男女共学の私立学校です。平成20年に学院長の指示で、道徳授業推進計画を開始して、今年4月から『13歳からの道徳教科書』を主要な教材とした、週一時間の道徳授業を開始しました。

 その道徳の授業では、必ず最後に生徒に感想を書いてもらうことにしています。今日はそのなかの一部を紹介したいと思います。

・今日の授業で「自分はしっかりしている方だ」と思っていたのが間違っていると気付きました。少しずつでも稚心を捨てていけるようにしたいと思いました(「稚心との決別」を読んで。中1男子)

・今日の授業をきいて思ったのは、ちょっとしたことで諦めるのは情けないということです。僕もすぐ「無理」と思ってしまいがちでした。これからはそれをやめていきたいと思っています。(「ゼロからの出発」を読んで。中1男子)

・「何のために学問するのか?」という言葉が胸にささった。何事にも理由があってする。夢があってする。だから、グサッと来た。やる気がなくなったりしても、これを聞いたら頑張れる気持ちになる。(「魂を揺り動かす手紙」を読んで。中3女子)

・主人公のように早くに恥をかき、指摘されたときに素直に受け止められるようになりたい。こんな授業をうけることができて自分を見直すことができました。(「私が二十四歳のときにかいた恥」を読んで。中1女子)

こういった生徒の感想を読むと、本当に先生は勇気づけられ、元気になります。こんな感想を書いてくれている。また来週頑張ろうという担任の声がよく聞こえてきます。まだまだ道徳授業に本格的に取り組んでから日が浅い本校ですが、生徒はもちろんのこと、先生にとっても、とても良い影響が出始めていると実感しています。

  続いて、筑波大学附属小学校教諭である山田誠氏が、『はじめての道徳教科書』収載の「台湾人に愛された日本人―八田與一(をテキストに模擬授業を行いました。参加者を生徒に見立て、班ごとに分けて話し合いをさせるなど、活気ある“授業”が展開されました。最後には、貝塚茂樹氏(武蔵野大学教授)をコーディネーターのもと、本日の登壇者の先生方によるディスカッションが行われ、会場の参加者の方の意見も聞きながら、よりより道徳教育を目指した、大変活発な議論となりました。

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コメント: 4
  • #1

    橋本唯隆 (月曜日, 10 3月 2014 00:21)

    道徳教育のあり方に疑問を抱き考察している者です。道徳の定義が曖昧なままでは果てしない論争が続くものと思います。愚論かもしれませんがご一読をお願いします。


    混迷する道徳教育論争に関する提言ー新たな視点から道徳を考える

    昨年文藝春秋12月号に「道徳は教えられない(浜崎洋介氏)」が掲載されたが、浜崎氏の意見においても、現行の教育の問題点は縷々記載されているものの、肝心の「では今後如何にすればよいのか?」について不明のままであるし、その原因は学術レベルにおいても「道徳とはそもそも何か?」が曖昧なまま、推移し、明確にされていないからである考える。「道徳教育教科化論」や「道徳授業向上論」は過去から議論されて来たが、何も進展したものはなく、同じような議論が繰り返されるだけであった。混迷する道徳教育論の新たな方向付けの一助になればとの思いから下記の通り提言する。

    1 初めに
    道徳教育の教科化に関する議論が盛んであり、「より効果を上げるために是非とも教科化を・・」との意見や「教科化しても何も変わらない」との意見もあり、噛み合わぬままの感が拭えない。その原因は「道徳は教えられるものか否か」、「そもそも道徳とは何であり、道徳教育は何を子供に教育するべきものか」などの基本的な事が曖昧なままであることが問題ではないかと考える。
    そこで社会全般に目を転じて、道徳なるものの必要性を考えてみたい。
    2 社会を成り立たせるもの
    人間の社会は官民各組織、団体の活動により、機能しており、それを支えるものは家庭や個々人の活動であり、更にそれを支えるものは「これだけの義務は最低限果たす。それで初めて、権利も主張できる」との「義務と権利」に関する意識である。そして個人が腐敗、堕落して、義務を果たさず権利だけを主張すれば、組織、団体も、そして社会も腐敗、堕落することは当然である。
    それは公的な組織だけの問題ではない。家庭においても同様である。家庭において、父親が父親の義務を果たさず、権利だけを主張してやりたいことだけをやれば、家庭は破綻するであろう。母親にしても同様である。夫が夫としての、妻が妻としての義務を果たさず勝手なことをすれば同様に破綻するであろう。「父親のくせに」とか「上司のくせに」とか「先輩のくせに」の言葉を頻繁に耳にするが、これら言葉の後に続くものは「・・のくせにやることやってない!」、「・・のくせに、やりたい放題だ!」との非難の言葉である。これらの背景にあるものは、その立場ごとの「果たすべき義務」や「許される範囲の権利」が暗黙のうちに規範的なものとして存在し、そこにそれぞれ「守るべき一線」が存在していることを示す。その一線が守られなければ、「・・のくせに」との非難となり、守られれば「さすが・・」との賞賛となる。
    そして、立場ごとの「義務と権利」の具体例を示す。親の「義務」は、子を養うことであり、その「権利」は、子供の可愛さを独占でき、その子から慕われ、自己の価値観に基づき子供を育てる喜びを享受できることである。上司の場合、その「権利」は、高い報酬と指導、叱咤できる権限であり、その「義務」は、持ち場で起きた問題に対処し、責任を取ることである。義務は「辛いもの、厄介なもの」であり、権利は「好ましいもの、欲しいもの」である。従って、義務の減少には即、賛同するものの、その拡大には反対しがちであり、更に、権利の減少には、即反対するものの、その拡大には即、賛同するのが、人間の一般的な傾向である。
    3 道徳とは何か?
    如何なる人間も賞賛されることを好み、非難されることを嫌う。「さすがお父さん!」や「さすが部長!」と賞賛されることを好み、「父親のくせに!」や「上司のくせに!」と非難されることを避けようとする。そのため父親としての「あるべき自分」即ち、父親としての「義務に積極的であり、権利に抑制的」でありたいと望む。ところが、現実は、「その義務から逃げ出したい臆病な自分」がおり、そして「時に、権利を越えて慢心(傲り)に浸りたい自分」がいる。これら「現実の自分」の存在こそが人間にとって最も厄介なのである。例えば、「子供が非行に走り出した」と妻から告げられ、「父親として、ここは子供に衝突覚悟で問い質すべき」と思いつつ、「仕事は忙しいし、喧嘩にでもなったら厄介。妻に任せたい」と思う臆病な「現実の自分」がいる。上司としての場合も同様である。「過去から続いて来た隠蔽問題は即刻、解決すべき」と思う「あるべき自分」が居て、一方で「なぜ自分の時に、自分だけが矢面に立つ必要があるのか?俺だっていい思いをしたい」と思う慢心に浸りたい「現実の自分」がいる。
    道徳とは、この「あるべき自分」と「現実の自分」との差を縮めんとして悩む葛藤である。
    換言すれば、道徳とは、「あるべき自分」を優先させようとすると「そんな事したら大変な事になるぞ!やめとけ!」と迫る「もう一人の自分」との戦いであり、また「現実の自分」を 優先させようとすると「それでいいのか?それでも父親(上司)か!」と非難する「もう一人の自分」との戦いでもある。
    この問題は、職業を越え、国境を越え、時代を越えて存在する人間の永遠の課題である。
    4 なぜ道徳が重要か?
    人間は「あるべき自分」の理想だけを常に掲げて、現実を無視して生きることなど聖人君子でもない限り不可能である。かと言って、「現実の自分」だけを掲げて理想もなく、我欲丸出しで生きることは、生きている意味が無くなる。
    だからこそ時には、ある程度の妥協をしながら生きる。しかしながら、人間は常に楽な方へ楽な方へと流れがちである。真剣な葛藤は苦しいからである。そして最も楽なものは葛藤しないことである。それは、「あるべき自分」を考えなくすることである。すると「現実の自分」との差が生じないことから「嫌なことから逃げたい自分、好きなことをやりたい自分」だけに従うことになる。これを具体的に言えば、「家庭の厄介な事は全て妻に任せ、外で遊び呆ける父親」とか「部下から厄介な問題を報告されると途端に不機嫌、気付かぬ振りしながら、賞賛されるような美味しい話には、すぐに飛び付く上司」などである。だからこそ「あるべき自分」を頭の片隅に置いて忘れず、葛藤することが大切なのである。差を縮めようとしてできない時があるはずだが、良心の呵責として「もう一人の自分」から非難、揶揄されることで、「次こそはやる」との思いに繫がるはずである。そして権利だけには安穏としてドップリ浸かることの自己の腑甲斐なさ、理不尽を恥じるだろう。「こんな父親でいいのか!」、「こんな上司でいいのか!」との葛藤こそが、より良き父親やより良き上司への模索に繫がるのである。だから道徳は重要である。

    「義務と権利」の重要性は様々なところで存在する。他人を批判する「義務と権利」について例を挙げる。「彼の発言だけは許せない」と感じて仕事帰りの居酒屋で同僚に不満をぶつけ、他人を批判する快感は誰しも感じた事があるはずである。「言いたいことを言う」、この「人を批判する権利」は誰にでもあるが、それを行使するなら、「これだけは言うべき、言わねばならない」と感じた時に、仮に相手が強くて怖い人であっても、その「人を批判する義務」が生じる。言い易い相手を批判する慢心、傲慢に浸りたいなら、言い辛い相手を批判する自己の臆病を我慢する義務が生じる。言論の自由が叫ばれ、それは民主主義社会の重要な価値とされる。「言いたいことを言う権利」は誰もが声高に主張するが、「言うべきことを言う義務」について、その主張をほとんど聞かない。匿名であったり、相手が弱いと見れば、批判の集中砲火を浴びせるくせに、実名であったり、相手が強いと見れば、どれほど沈黙することの多いことか。権利に酔いたい「現実の自分」を望むなら、「あるべき自分」であるべく、自己の臆病を克服する義務が生じる。それは各人が自分の裁量で持てる「小さな勇気」に他ならない。「やりたい事は、やるべき事をやって、初めてできる」ということである。
    道徳は人間が人間であるための、そして自分が自分らしくあるために、必要不可欠な痩せ我慢なのである。昔ソクラテスが言ったとされる「善く生きる」事が重要とされ、学習指導要領にも記載されているが、それを具体化したものを寡聞にして知らない。管見ながらこの痩せ我慢こそが「善く生きる」事なのだと考える。
    5 道徳は教えられるか?
    以前、新聞で読んだ記事だったが、母子家庭で息子と二人暮らしの母親が、生前の父親の立派な生き方を小さい頃から息子に話して聞かせていたらしい。子供には死んで、もういないが、心の中には常に父親が居たのであろう。「お父さんに恥ずかしくない生き方をしたい。お父さんだったら何て言うだろう」と
    常に自問自答して自己を律して生活したらしい。立派な母親思いの青年、社会人に育ったらしい。その少年の心の中には、模範としての父親が「あるべき自分」として存在し、腑甲斐ない「現実の自分」との葛藤に悶えつつ成長したのであろう。母親も父親がいない中で、必死に少年を育てたのであろう。そして真から夫を愛し、自分を律していたのだと感じる。口先だけ父親を褒めても子供も見抜いてしまうだろう。母親は「やりたい事の前にやるべきこと」を実践し、立派に道徳を教えたのだと考える。
    従って、道徳は教えられるのである。そしてその条件として、教える側が教えられる側に「あの人の言うことだから正しいはず。従おう」と思わせる権威の存在である必要がある。これは下賤な言葉で言えば、「舐められたら、何言ってもムダ」という事である。そしてもう一つは、教える側が何らかの「あるべき自分」に向かう痩せ我慢を実践することである。それは具体的には、「やりたくとも、これだけはやらない」ことや、「やりたくなくとも、これだけはやる」ことなどの「守るべき一線」を守ろうとする生き方の実践である。簡単なことで構わない。例えば、教師が生徒に集会、ミーティングで、発言が少ない事を以て、「自分の意見を人の前で堂々と話すことは大切ですから勇気を出して意見を述べましょう」と指導したなら、自身も職員会議で毎回一度は発言する実践が伴うということである。その小さな勇気の実践を生徒に話すのである。それは立派な道徳教育である。
    私の父親が昔話してくれたことを思い出す。父は国鉄で保線区の仕事をやっていた。保線とは読んで字の如く、線路を守る仕事である。ある時大雨が降り、休日にもかかわらず仕事に出て行った。数日して父は帰ってきた。そして言った。「大雨で崖が崩れて、線路が土に埋まった。列車も止まった。何とか復旧しようと思い、1日に僅かな時間しか眠らずひたすらスコップで泥をどかした。苦しかった。きつかった。雨が降り続き、またいつ土砂が崩れるか分からない。もしかすると仲間と共に死んでしまうかもしれないと思った。だけどな、自分がやらないと列車は動かないんだ。逃げる訳には行かないんだ。そして、列車が動いた時は本当に嬉しかったよ」と。日頃仕事のことを話さない父であったが、そう話すのを聞いて自分では立ち入ることのできない仕事の厳しさ、生きることの厳しさ、時には死の恐怖に耐えねばならぬことがあるんだと感じたことを覚えている。
    6 テレビドラマ「白い巨塔」に見る道徳


  • #2

    橋本唯隆 (月曜日, 10 3月 2014 00:27)

    6 テレビドラマ「白い巨塔」に見る道徳
    今から十年ほど前の作品は最終回、視聴率30%を越える人気番組となったが、その中心となったテーマは、癌に伴う手術を巡って患者は死亡し、患者遺族から裁判を起こされ、医師としての良心に従い、病院側に不利になることも覚悟して真実を語ろうとする里見助教授と自己の保身、名誉欲に駆られて「あれは不可抗力。判断に誤りは無かった」と、無実を主張する財前教授との確執、争いである。里見は証言台に立つことで病院での名誉ある地位を投げ出すこととなり、職を失い家族は不安に陥る。「真実を述べる」ことが、自分だけでなく家族をも危機に陥らせる不安。まさに医師としての「あるべき自分」と「現実の自分」との戦い、葛藤である。ほとんどの人間は里見になれない。かと言って、全ての人間が財前ばかりでは、医師という職業は金儲けのみの仕事になるであろう。どんな人間にも自分の中に里見と財前がいるのである。里見ばかりではとても人間は生きていけない。そして財前ばかりでは生きている意味が無くなる。そして二人の間に葛藤が無くなる時にあるべき自分を見失なうことになるのである。葛藤を避けることが一番楽であり、人間誰しも陥り易い陥穽なのである。
    7 道徳教育とは?規範意識とは?
    そこで改めて問う。道徳とは何か?人間は様々な立場を有する。親、夫、妻、子としての立場から始まり、友達、先輩、後輩、上司、部下、政治家、官僚、企業マン、日本人、⚪️⚪️県人、⚪️⚪️大学卒業生、などなどである。そこには全ての「あるべき自分」と「現実の自分」が存在し、その葛藤が道徳である。どの立場を優先するか、その答えはどこにも存在しない。決められるのは自分であり、その結果責任を執るのも自分である。時にその立場同士で「義務と権利」が複雑に絡み衝突することがある。葛藤はより深刻になる。そして人間は「やりたい権利」だけを如何に主張しがちとなり、「やるべき義務」から逃れようとしがちとなるか。「どの立場の義務が一番重荷で、逃げたいか、だがそれは狡くないか」などと、そんな事を思い悩むのである。
    今、子供の規範意識醸成が叫ばれているが、規範意識とは、単に「法律、規則、ルール」などを守ろうとする意識ではない。それは自分の心の中で「やりたい事をやるには、やるべき事をやらないと狡いこと」との自己の行動を律しようとする意識である。それは自律心、自立心とほぼ同義である。子供には子供の「やりたい権利」と「やるべき義務」がある。そして「権利の前に義務」の大切さを伝えるのが道徳教育である。そのためには、親と教師が、「何事も問題なく、平穏無事に」と願う権利を享受しつつも、時に「これだけは言わねばならぬ」と思う事を自分の義務として、敢然と子供と向き合う覚悟を持ち、実践せねばならない。「物分りのいい親」、「話の分かるいい先生」を望む権利は享受して構わないが、その前に嫌われても構わぬ覚悟で義務を黙々と果たす姿が、最高の道徳教育と考える。そんな大人の前では子供は言い訳出来なくなるのである。その逆の大人像が「権利ばかり主張し、悪いのは常に他人であり、愚痴る大人」なのである。
    しかしながら、生徒の道徳性を言う前に、利権、既得権益に群がる政治家こそが、「自分は義務を果たしているか」と振り返る必要があるだろう。自己の道徳性を振り返らず、他人の道徳性を批判するのは不道徳である。「道徳教育の向上、強化」を唱える時、やり方を誤れば、同種の陥穽に陥る危険性を秘めている。政府はそこに気付いているだろうか?具体的道徳教育のやり方については別稿に譲る。

    次稿は具体的な道徳教育のやり方について述べますが、現在、学校では「思いやり、優しさ、正直さ」などの徳目を如何にして教えるかが中心となっていますが、もっと効果的なやり方は生徒、友達、家の中の子供としての「義務と権利」を中心にやるべきと考えます。「遊ぶ、好きなものを食べる権利」には
    「お手伝い、勉強する義務」や、いじめ問題にしても、水戸黄門などの勧善懲悪ものドラマのように「この人嫌い」と思う人が苦しんでいるのを見ると快感を感じてしまう、「他人の不幸は蜜の味」とする人間の負の本質に伴うものであることから、「だから簡単には無くならない」と思うのですが、「友達と遊ぶ権利、孤独を癒して貰える権利」を行使するには、その友達がいじめられていれば、「助ける義務、見て見ぬ振りしない義務」が生じて来ることを教えることが大切と考えます。学校のインタビューで生徒が、「いじめは悪いと分かっているが、誘いを断ると自分がやられる」事を理由にいじめている実態があります。権利だけ行使して、義務を果たさない狡さを大人が知らせるべきです。子供時代が一番「ズルイ!」と言う言葉に敏感だからです。「犬を飼う権利を楽しみながら、散歩させる義務から逃げるのはズルいこと」の様なものです。
    大人自身が権利に溺れず義務を果たす姿が大切と感じます。スマホにしても「楽しむ権利」には、「必要以上の目的に使用しない義務」や「楽しんだ後の結果責任を取る義務」が伴う事を条件に持たせれば済む問題です。細部はまた送付します。
    蛇足ですが、上記の拙論は参考文献はありません。どんな哲学書等を長年読んでも道徳がわからないため、自分で考えたものです。


    郵便番号205ー0003 東京都羽村市緑ヶ丘3ー23ー17 橋本唯隆 56歳 教育研究家
    電話042ー579ー2640 日本道徳教育学会会員

  • #3

    seks telefon (水曜日, 01 11月 2017 01:33)

    zrosłogłowy

  • #4

    na tej stronie (土曜日, 04 11月 2017 02:12)

    zaborczy